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ラウンドアップ・トゥ・クライスト

最初のゲートが開く前、アリーナが静まり返る。アナウンサーが全員に起立を呼びかけ、スピーカー越しに祈りをささげる。ライダーのため、動物たちのため、今夜の無事のために。帽子が脱がれ、シュートの裏のライダーも、スタンドの家族も、観客みんなが頭を垂れる。アメリカ各地のロデオで、昔から受け継がれてきた伝統だ。

いよいよ、ゲートが開く。巨大なブルが跳ね上がり、空中でひねり、地面に叩きつけるように着地する。ライダーは片手でロープを握り、もう片方の手を高く上げたまま、体ごと振り回される。1秒、また1秒。アリーナの声が遠くなる。

そしてブザー。8秒。

ライダーは地面に転がり落ち、すぐに立ち上がってフェンスへ走る。砂ぼこりがおさまるころ、チャップスの土を払い、帽子のつばに手をやって、静かに空を指さします。

ロデオを見ていると、この光景に何度も出会います。ライドのあとのインタビューで、多くのカウボーイやチャンピオンが最初に口にするのは、神への感謝です。無事に乗れたこと、力を与えられたこと、この仕事ができること。

それは自慢ではありません。ブルに乗る人は、ほとんどのライドで振り落とされることを誰よりも知っています。だからこそ、最高のライドのあとにマイクを向けられたその瞬間を、自分の信仰を分かち合うチャンスだと考えるのです。

名誉、忠義、くじけない心、そして一つの仕事を極める職人の誇り。日本のウエスタンファンが「コード・オブ・ザ・ウエスト」に惹かれるのは、それが日本人の心にも響くからではないでしょうか。だとしたら、そのカウボーイたちが空を指さす理由、イエス・キリストにも、一度目を向けてみませんか。

第1部 コード・オブ・ザ・ウエストとキリストの道

ボスの後ろを走れ

キャトルドライブでは、トレイルボスが先頭を行きます。いちばん偉いからではなく、この土地を知っているからです。どこに水があり、どの川なら渡れて、どこに崖があるのか。

聖書の語るイエスは、わたしたちの究極のトレイルボスです。遠くから地図を送ったのではなく、自分で歴史の中に入ってきて、人として同じ道を歩き、先に立って導いてくれる方です。

ブランドのために乗る

「ライディング・フォー・ザ・ブランド」は、雇われた牧場の焼き印に命がけで忠実であることを意味します。カウボーイの忠義は、日本の武士の忠義にも通じます。

キリストを信じる人は、キリストのブランドのために乗ります。それは、主君がまず自分のために命を捨ててくれたからです。忠義の順番が逆なのです。

グレート・ラウンドアップ

ラウンドアップの季節、カウボーイはとげだらけの茂みや深い谷にまで馬を進め、迷った牛を一頭ずつ連れ帰ります。

聖書は、人間を迷った羊や牛のように描きます。自分の道を行き、群れから離れてしまった存在です。でも神は、茂みの外で待っていたのではなく、自分から入ってきて、わたしたちを連れ帰りに来ました。それがこのサイトの名前「ラウンドアップ」に込めた、もう一つの意味です。

「わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書 10章11節)

第2部 日本の証人たち

注目の人

日本の弁証家・メディア伝道者 中川健一牧師(Kenichi Nakagawa)

鍛えられた訓練、筋の通った作戦、妥協しない基準。そんなものを大事にするウエスタンファンが中川健一牧師に出会うと、霊的な土地の一マイル一マイルを知りつくした、ベテランのトレイルボスに会ったような気がするはずです。

中川牧師はハーベスト・タイム・ミニストリーズ代表。1947年大阪府生まれ、1970年に一橋大学を卒業し、6年間の会社勤めのあと米国のトリニティ神学校に留学、1979年に卒業しました。同じ年から東京都町田市で開拓伝道を始め、町田クリスチャンセンターを設立。1986年に福音テレビ放送団体「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」を設立し、24年間テレビ伝道を続けました。2010年3月にテレビ伝道を終えてからは、集会やセミナー、聖書塾、インターネットを通して、聖書を深く学ぶ働きを続けています(ハーベスト・タイム公式サイトより)。聖書を、書かれた時代背景や土地の文化、ユダヤ的な視点から読むことを大切にしています。

働きの3本柱

1. 体系的な聖書講解と歴史の信頼性
聖書をばらばらの道徳話として扱うのではなく、一節一節ていねいに解き明かします。歴史、考古学、古代の写本が聖書の信頼性をどう支えているかを示します。

2. 成就した預言と弁証
何世紀も前に語られた預言が歴史の中でどう実現したかを説明します。信じる前にまず証拠を見たい、分析的な人に響くアプローチです。

3. 創造と科学的な懐疑への答え
世俗的な唯物論や進化論的自然主義の影響が強い文化の中で、科学的な疑問に正面から向き合い、意図をもった創造主を信じることが科学と矛盾しないと論じる日本語の資料を届けています。

どこで学べる?

こんなテーマを教えています

カウボーイは8秒のライドのあと帽子を傾けて神に感謝し、行動で勇気を見せてくれます。中川牧師は、信仰が知的にもしっかりした地面の上に立っていることを見せてくれます。キリスト教を調べるのに、頭をドアの外に置いてくる必要はありません。証拠が導くところまでついて行けばいいのです。

永井隆博士(長崎の放射線科医)

永井隆(1908〜1951)は長崎医科大学の放射線科医でした。学生時代は唯物論に傾き、神を信じていませんでしたが、パスカルの『パンセ』に触れ、浦上のカトリックの人々と出会う中で、証拠と問いを追いかけるようにして信仰に至り、洗礼を受けました。

1945年8月9日の原爆で妻を失い、自身も重い被爆と白血病を抱えながら、被爆者の救護に当たりました。晩年は二畳ほどの小さな家「如己堂(にょこどう)」で、『長崎の鐘』『この子を残して』などを書き、苦しみの意味と平和を問い続けました。「如己堂」の名は「己の如く人を愛せよ」という聖書の言葉から来ています。

▶ 【日本語】永井隆博士の生涯(永井隆記念館) (YouTube / 長崎市平和推進課)

新渡戸稲造(『武士道』の著者)

新渡戸稲造(1862〜1933)は札幌農学校で学び、在学中に洗礼を受けたキリスト者です(のちにクエーカーとして生きました)。旧五千円札の肖像としても知られています。

1899年、英語で『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を書き、日本人の道徳の根っこを世界に紹介しました。義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義。新渡戸は武士道を大切にしながら、キリスト者として、その徳がキリストの教えとつながっていると考えていました。サムライの道は、キリストの道で行き着く先を見つける、というのがこのページの考えでもあります。

▶ 【名著】武士道|新渡戸稲造 (YouTube / アバタロー)

マコト・フジムラ(日系アメリカ人アーティスト)

マコト・フジムラは、日本画の技法を学んだ日系アメリカ人の画家で、キリスト者です。著書『Art and Faith: A Theology of Making』などで、金継ぎを信仰のたとえとして語っています。

割れた器を漆と金で継ぐ金継ぎは、傷を隠さず、かえってそこを美しく輝かせます。フジムラは、キリストが壊れた人生を捨てずに、新しく、前よりも美しく作り直してくれることを、金継ぎに重ねます。ブルから何度も落ちて傷だらけになったライダーにも、響く話です。

▶ Art and Faith: A Theology of Making – Makoto Fujimura (YouTube / delgado podcast)

▶ Mending Trauma | Theology of Making (YouTube / Fuller Seminary)

第3部 なぜイエスが必要なのか

カトリック教会のカテキズム(457〜460項)は、神のことばが人となった理由を四つにまとめています。

わたしたちを救うため、神と和解させるため (CCC 457)

わたしたちが神の愛を知るため (CCC 458)

わたしたちの聖性の模範となるため (CCC 459)

わたしたちを神の本性にあずかる者とするため (CCC 460)

迷ったわたしたちを連れ帰り、愛されていることを教え、乗り方を見せ、家族として迎え入れる。トレイルボスがしてくれるのは、そういうことです。

出典: Catechism of the Catholic Church, 456–460 (vatican.va)

水の中、光の下で両手を上げるイエスの後ろ姿の絵

トレイルから顔を上げて

8秒のブザーのあと、カウボーイが空を指さすのは、自分一人の力で乗っているのではないと知っているからです。

あなたの道がどんなに荒れていても、遅すぎることはありません。少し手綱をゆるめて、考えてみてください。そして、よければ心の中でこう祈ってみてください。「イエスさま、わたしの先を行ってください」。

まずはここから:ヨハネの福音書

イエスさまについて最初に読む一冊として、いちばんよく勧められるのが「ヨハネの福音書」です。無料で、オンラインですぐに読めます。

ヨハネによる福音書 1章(口語訳・YouVersion)を読む
このサイトで全21章を読む(1910年カトリック・ラゲ訳)

第4部 よくある疑問と証拠

ここからは、じっくり考えたい人のためのコーナーです。ノーマン・ガイスラー&フランク・トゥレック『I Don't Have Enough Faith to Be an Atheist』(Crossway、2004年。邦題なし)の枠組みにそって、よくある疑問への答えを、わたしたち自身の言葉でまとめました。ボタンを押すと開きます。

真理は文化によって違うのでは?

「真理は相対的だ」という文は、それ自体を絶対の真理として主張しているので、自分を否定してしまいます。重力の法則や熱力学の法則が、東京でもアリゾナでも同じように働くように、霊的な真理も、信じるかどうかとは別に存在しうるのです(下の①で詳しく)。

科学は神なしで宇宙を説明できるのでは?

SURGE(熱力学第二法則、宇宙の膨張、放射の残光、銀河の種、一般相対性理論)は、宇宙に始まりがあったことを指し示しています。始まりがあるものには原因が必要で、その原因は時間の外にあり、力強く、人格を持つ創造主を指し示す、と本は論じます(②で詳しく)。

聖書は書き換えられた神話では?

新約聖書は古代の文書の中で最もよく証言されているものの一つです。目撃者が生きていた時代に書かれ、数千もの写本が残り、作り話なら残さないような「恥ずかしい話」まで書かれています(⑥⑦で詳しく)。

しかも、この話を伝えたのは信者だけではありません。タキトゥス(『年代記』15巻44節)、小プリニウス、スエトニウス、ユダヤ人の歴史家ヨセフスといったキリスト教徒でない書き手も、イエスや初期のクリスチャンに触れています。反対者の「弟子たちが遺体を盗んだ」という話(マタイ28章11〜15節)でさえ、墓が空だったことを認めています。

反論と答え:もっと深く(全9項目)

ノーマン・ガイスラー&フランク・トゥレック『I Don't Have Enough Faith to Be an Atheist』(Crossway、2004年。邦題なし)の章の順番にそって、主な論点と、よくある反論、本の答えを、わたしたちの言葉でまとめました。本の立場の要約であり、証拠が何を「指し示しているか」を紹介するものです。

① 真理は存在するのか

よくある反論

「真理なんて人それぞれ。文化が違えば正解も違う」――日本でもアメリカでもよく聞く言葉です。宗教の話になると特に、「あなたにとっての真理、わたしにとっての真理」で話を終わらせたくなるものです。

この考え方は一見、謙虚で寛容に見えます。誰も押しつけないし、誰も傷つけない。だから「絶対的な真理がある」と言う人は、傲慢に聞こえてしまいます。

本の答え

本は、まずこの主張そのものを点検します。「絶対的な真理は存在しない」という文は、それ自体が絶対的な真理として語られています。自分で自分の足場を切り落とす文、つまり自己矛盾です。「真理は知り得ない」と言う人も、そのことだけは知っていると主張しています。

次に本が挙げるのは、物理の法則のたとえです。重力の法則は、東京でもトゥームストーンでも、信じる人にも信じない人にも同じように働きます。熱いストーブに触れればやけどをするのは、どの国の文化でも同じです。真理は発明するものではなく、発見するもの。本は、道徳や霊的な真理も同じように、人の好みとは別に存在すると論じます。

そして寛容について。寛容とは「すべての意見が正しい」と考えることではなく、意見の違う相手を尊重することです。「寛容であるべきだ」と言うこと自体が、すべての人に当てはまる道徳的真理を前提にしています。本は、真理があるなら、次の問いは「では、どれが真理か」だと話を進めます。ライダー同士で言えば、地図を読まずに荒野へ出る人はいない、ということです。

証拠を見る

最初の証拠は論理そのもの。「同じ意味で同時に、真でも偽でもある」ことはない、という矛盾律は、「真理は相対的だ」と主張する人も含め、議論するすべての人が使っています。否定しようとしても、それを使わないと否定できません。

日常もそれを裏づけます。銀行、医者、パイロット、裁判所は、正しい言葉と間違った言葉があることを前提に動いています。薬剤師が薬の量を読むとき「それはあなたにとっての真実」とは誰も受け入れません。本のポイントは、私たちはすでに真理がある前提で生きている、ということ。問題は、話題が神になっても一貫しているかどうかです。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:彼らは真理を、牧場を建てる地面のように扱います。何も真だと言えないなら、無神論を含め、どの宗教も間違いだとさえ言えません。だから神の話をする前に、相対主義が自分を否定してしまうことから始めます。あとのステップはすべて、この土台の上に立っています。

トレイルの上で考えると:どの道が本当に家へ続いているかは、好みでは決まりません。地図と星と地形が教えてくれます。だからこそ、信仰についても「何が本当か」を問う価値があるのです。

② 宇宙には始まりがあった(宇宙論的論証)

よくある反論

「科学がすべてを説明できる。宇宙は昔からずっとあったのかもしれないし、神を持ち出す必要はない」という反論です。

さらに「神が宇宙を造ったなら、その神は誰が造ったのか」という、昔からある問いもあります。

本の答え

本の論証はシンプルです。始まりを持つものには、すべて原因がある。宇宙には始まりがあった。だから宇宙には原因がある。ポイントは二つめで、本はその根拠を英語の頭文字で「SURGE」とまとめます。

S(熱力学の第二法則):使えるエネルギーは減り続けます。宇宙がずっと昔からあったなら、すでに燃え尽きているはずです。U(宇宙は膨張している):1920年代のハッブルの観測以来、宇宙は膨らみ続けていることがわかっています。時間を巻き戻すと、一点の始まりにたどり着きます。R(放射の残光):1965年に偶然見つかった宇宙マイクロ波背景放射は、始まりの爆発の「名残の光」と考えられています。G(銀河の種):1992年、COBE衛星がその放射のわずかな温度のゆらぎ、のちに銀河が育つ「種」を見つけました。E(アインシュタインの一般相対性理論):この理論は、時間・空間・物質に始まりがあったことを示します。

では原因は何か。時間・空間・物質そのものの原因なら、それは時間の外にあり、空間を持たず、物質でもなく、とてつもない力を持ち、無から宇宙を生み出す「選択」をした存在、つまり人格を持つ存在だ、と本は論じます。「では神を造ったのは誰か」については、始まりのないものに原因は要らない、と答えます。宇宙には始まりがあり、神にはない。だから問題になるのは宇宙のほうなのです。「量子の真空から自然に生まれた」という説にも、真空はエネルギーと法則を持つ「何か」であって「無」ではない、と本は応じます。

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宇宙の始まりは教会の考えではなく、主流の科学です。1927年にジョルジュ・ルメートルが膨張宇宙を提唱し、1929年のエドウィン・ハッブルの観測がそれを裏づけました。1965年に宇宙背景放射を発見したペンジアスとウィルソンは、1978年のノーベル物理学賞を受けています。1992年のCOBEの観測が、その「ゆらぎ」を加えました。

2003年には物理学者ボード、グース、ビレンキンが、平均して膨張してきた宇宙は無限の過去までさかのぼれない、という定理を発表しました。その境界が何を意味するかは今も議論がありますが、「始まりのない宇宙」という考えは苦しい立場です。本の結論は、始めたものは時間・空間・物質の外にいる、ということです。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:議論は短い3行だけにして、力を注ぐのは真ん中の一行の証拠です。懐疑的な人が突くのはそこだからです。「では誰が神を造ったのか」への答えは、この議論は「存在し始めたもの」にだけ当てはまる、というもの。時間の外にある原因は始まっていないので、造り手を必要としません。

トレイルの上で考えると:夜明けに足跡を見つけたら、誰かが通ったとわかります。宇宙に始まりの跡があるなら、その始まりを起こした誰かについて考えるのは、カウボーイの勘としても自然なことです。

③ 設計の証拠(ファインチューニング、最初の生命、DNA、還元不能な複雑さ)

よくある反論

「宇宙や生き物が設計されたように見えるのは、偶然と自然選択の結果にすぎない。わからない部分に神をはめ込むのは『隙間の神』だ」という反論です。

本の答え

本はまず、宇宙のファインチューニング(微調整)を取り上げます。重力の強さや宇宙の膨張の速さなど、多くの物理定数がほんの少しでも違っていたら、生命は存在できなかったと多くの物理学者が指摘しています。本はこれを、生命を迎えるために整えられた家にたとえます。

次に最初の生命。いちばん単純な生き物でも、DNAには膨大な情報が書き込まれています。本は、DNAの情報を「文字で書かれたメッセージ」にたとえます。浜辺で「太郎♥花子」と書かれた砂文字を見つけたら、波のしわざではなく誰かが書いたと考えるのが自然です。わたしたちが知る限り、意味のある情報を生み出すのは知性だけです。

さらに本は、生化学者マイケル・ビーヒーの「還元不能な複雑さ」を紹介します。細菌のべん毛のモーターのように、部品が一つでも欠ければ動かない仕組みは、少しずつの変化の積み重ねでは説明しにくい、という主張です。ネズミ捕りは、バネがなくても台がなくても役に立ちません。

「隙間の神」という批判に対して、本は、これは「わからないから神」ではなく「わかっていることからの推論」だと答えます。情報や複雑な機械を生み出す原因として、わたしたちが実際に知っているのは知性です。考古学者が矢じりを見て人の手を推論するのと同じ、と本は言います。本は大きな進化(マクロ進化)にも疑問を投げかけていますが、これは科学者の間でも議論のある分野で、本の立場として紹介しておきます。

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ファインチューニング(微調整)は、立場を問わず物理学者が語るテーマです。神を論じているわけではない天文学者マーティン・リースも、著書『宇宙を支配する6つの数』(1999年)で、少し違えば星も化学も存在しない物理定数について書いています。議論は「調整が驚くべきか」ではなく、その説明(設計か、偶然か、多宇宙か)をめぐってです。

生命の起源も同じです。1953年のミラー=ユーリーの実験はアミノ酸を作りましたが、生きていない化学物質から生きた細胞を作った実験室はありません。DNAは4文字の化学コードで指示を保存していて、本は「私たちが知る限り、コード化された情報は必ず知性から来る」と論じます。マイケル・ベーエの『ダーウィンのブラックボックス』(1996年)はバクテリアのべん毛のような「機械」を挙げました。批判者はその結論に反対しており、本は両方の言い分を比べるよう読者に勧めます。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:ふだんの生活で私たちは、意味のある情報を見たら知性を推測します。砂に「Ride on」と書いてあれば、風ではなく人が書いたと思うでしょう。彼らは同じ日常の推論を、微調整された定数やDNAに当てはめ、結論が神になるときだけなぜその推論を止めるのか、と問いかけます。

トレイルの上で考えると:よく手入れされた鞍や、ぴたりと合ったブーツを見れば、職人の手を感じます。日本の職人文化を知る人ほど、「設計」という言葉の重みがわかるはずです。

④ 道徳の法則

よくある反論

「善悪は社会や進化が作ったもの。神がいなくても人は善く生きられる」という反論。そして「本当に神がいるなら、なぜ世界に悪があるのか」という、いちばん重い問いです。

本の答え

本は、まず神を信じない人も善い人でありうることを認めます。問題は、人が善く生きられるかではなく、善悪の基準がどこから来るのか、です。

誰でも、楽しみのために子どもを苦しめることは間違っていると知っています。自分がずるをされたら「ずるい!」と怒ります。その時わたしたちは、相手も知っているはずの基準に訴えています。本は、このように人の心に書かれた道徳の法則があるなら、その法則を与えた存在がいる、と論じます。

「社会が決めた」なら、ある社会の奴隷制度や差別を「間違っていた」と言うことはできなくなります。比べるための、社会の外にある物差しが必要です。「進化が決めた」についても、本は、進化はわたしたちがどう振る舞うかを説明できても、どう振る舞う「べき」かは言えない、と答えます。

悪の問題について本は、悪を「悪」と呼べること自体が、善の基準を前提にしていると指摘します。曲がった線は、まっすぐな線を知っていて初めて曲がっているとわかります。そして、キリスト教は悪を軽く見ません。神は悪を取り除くために自ら十字架で苦しみを引き受けた、というのがこの物語の中心です。

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C・S・ルイスは『キリスト教の精髄』を「けんか」の話から始めました。人は「それはずるい」と言い、相手もその意味が分かるはずだと思っています。文化を越えて、たとえば面白半分に子どもを苦しめることはどこでも悪とされます。細かい点で意見が違っても、共通の基準をめぐって議論していることに気づきます。

歴史にはもっとはっきりした例があります。第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判で、ナチスの幹部は自国の法律のもとで行った犯罪について裁かれました。裁判所は、どの国よりも上にある基準で裁いたのです。本の問い:道徳がただの文化や意見なら、その基準とは何で、誰が書いたのか?

ガイスラーとトゥレックの組み立て:善悪を「知ること」と、善悪の「源」を分けて考えます。無神論者も良い隣人になれる、と彼らは言います。問題は、何が「善」をただの好みではないものにしているか。普遍的な道徳律には道徳の与え手が必要で、私たちの正義感はその方を指し示している、というのが彼らの主張です。

トレイルの上で考えると:コード・オブ・ザ・ウエストも武士道も、「こうあるべきだ」という生き方の掟です。その掟が本物の重みを持つなら、掟を与えた方がいる、というのが本の問いかけです。

⑤ 奇跡は可能か

よくある反論

「自然法則は破られない。奇跡なんて昔の人の迷信だ」という反論。哲学者デイヴィッド・ヒュームの「奇跡の報告は、いつも変わらない自然の経験に負ける」という議論がよく使われます。

本の答え

本の答えは、まず順番の問題です。もし神が存在するなら、奇跡は可能です。宇宙を無から造った存在にとって、その中で特別な行動をとることは難しくありません。だから奇跡を最初から締め出せるのは、神がいないことをすでに証明した人だけです。

ヒュームの議論について本は、証拠は「数える」ものではなく「重さを量る」ものだと答えます。いつも起きることだけを信じるなら、一度きりの出来事、たとえば宇宙の始まりや生命の誕生さえ信じられなくなります。ロデオでも、毎回同じことが起きるとは限りません。

また本は、科学は繰り返し起きる規則的な出来事を調べる方法であって、一度きりの特別な出来事を調べるには、法廷や歴史学のような「証拠と証言」の方法が合う、と説明します。奇跡は自然法則を壊すのではなく、そこに新しい原因が加わる出来事だ、という考え方です。

証拠を見る

奇跡に対する近代の反論は、デイヴィッド・ヒュームの『人間知性研究』(1748年)にさかのぼります。一様な経験は常に奇跡の報告より重い、という主張です。本は、それでは個々の奇跡の証拠を見る前に奇跡を排除してしまう、裁判の前に判決を出すようなものだ、と答えます。

科学の法則は、外から何も手が加わらないときに普通に起こることを説明するものです。ボールを落とせば落ちる。でも誰かがキャッチすれば止まる。キャッチしても重力は壊れません。2番の議論が正しく創造主がいるなら、自然を作った方が自然の中で働くことは、牧場主が自分で作ったゲートを開けるのと同じくらい不可能ではありません。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:奇跡は本の前半と後半をつなぐちょうつがいです。2〜4番が創造主を指し示すなら、奇跡は不可能ではなく、証拠の問題になります。そこから彼らは、神からのメッセージを確かめられる歴史の証拠へと進みます。

トレイルの上で考えると:ベテランのカウボーイほど、「いつも通り」が通用しない日があることを知っています。大事なのは、起きたことの証拠をまっすぐ見ることです。

⑥ 新約聖書は信頼できるか(早い時期・目撃者・写本)

よくある反論

「聖書は何百年もかけて書き換えられた伝言ゲーム。しかも書いたのは信者だから、偏っている」という反論です。

本の答え

本はまず「早さ」を見ます。パウロの手紙はイエスの死から数十年以内に書かれ、コリント人への手紙第一15章には、それよりさらに早い時期の信仰告白が引用されています。伝説が育つには時間がかかりますが、ここでは当時の目撃者がまだ生きていました。

次に「写本」。新約聖書には、ギリシア語だけでも数千もの写本が残っています。古代の他の書物、たとえばホメロスやローマの歴史家の作品と比べても、ずば抜けて多く、原本に近い時代のものもあります。伝言ゲームと違うのは、たくさんの独立した写しを比べることで、元の文章をかなり正確に復元できる点です。

さらに本は、福音書に「目撃者らしさ」があると指摘します。地名や人名、当時の細かな事情が書き込まれています。そして、自分たちに不利な「恥ずかしい話」がそのまま残っています。弟子たちはたびたびイエスを理解できず、ペテロはイエスを三度知らないと言い、空の墓を最初に見たのは、当時は証言が重く見られなかった女性たちでした。作り話なら、こうは書きません。

「書いたのが信者だから」については、本は、信じたのは見たからであり、また、ヨセフスやタキトゥスといったキリスト教徒ではない古代の著者も、イエスとその処刑に触れていると答えます。

証拠を見る

写本の数はよく記録されています。新約聖書のギリシャ語写本や断片は5,000以上残っていて、初期の翻訳を加えると数千が加わります。比べると、タキトゥスのようなローマの歴史家の作品は、わずかな写本しか残っていません。マンチェスターにあるヨハネの福音書のライランズ断片(P52)は、ふつう2世紀前半のものとされます。

考古学はルカの細かい記述を何度も確かめてきました。ルカはテサロニケの役人を「ポリタルケス」と呼びましたが、かつては珍しいとされたこの肩書きの碑文が、その後現地で見つかっています。懐疑的な学者も含め多くの学者が紀元50年代半ばのものとするパウロの『コリント人への手紙第一』には、すでにイエスについての中心的な主張が記されています。出来事を覚えている人がまだ生きていた時代で、伝説が育つ時間があったかどうかに関わる点です。

証言者は味方ばかりではありません。キリスト教に肩入れする理由のない古代の書き手たちも、それに触れています。ローマの歴史家タキトゥス(『年代記』15巻44節、2世紀初め)は、「クリストゥス」がティベリウス帝の時代にポンテオ・ピラトのもとで処刑されたと書いています。ローマの総督だった小プリニウスは、紀元112年ごろトラヤヌス帝への手紙(『書簡集』10巻96)で、クリスチャンが集まって「神に対するようにキリストに」賛美を歌っていたと報告しています。ローマの伝記作家スエトニウス(『クラウディウス伝』25章4節)は、「クレストゥス」に関わるローマでの騒ぎに触れています。ユダヤ人の歴史家ヨセフス(『ユダヤ古代誌』18巻・20巻)は、イエスと「イエスの兄弟ヤコブ」に言及しています。最初の箇所の一部には議論がありますが、多くの学者は彼がイエスについて書いたこと自体は認めています。ガイスラーとトゥレックのポイント:キリスト教以外の資料だけでも、イエスの生涯と死の大筋は描ける。だから「偏った信者だけが語った話」という批判は成り立たない、ということです。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:歴史家がどんな古代文書にも使うテストに新約聖書をかけます。どれだけ早いか、写本はいくつあるか、独立した資料はいくつか、書き手が自分に不利な細部まで書いているか。彼らの結論は、書き手たちは真実を語っていた、そして違うと言う側こそそれを示す必要がある、というものです。

トレイルの上で考えると:牧場の帳簿も、焼き印の記録も、書いた時期が近く、写しが多いほど信用できます。新約聖書は、その物差しで測られてきた書物です。

⑦ 復活

よくある反論

「死んだ人がよみがえるはずがない。弟子たちは幻を見たか、遺体を盗んだか、イエスは本当は死んでいなかったのだ」という反論です。

本の答え

本は、多くの歴史家が認めるいくつかの事実から出発します。イエスは十字架で死んだ。墓は空だった。弟子たちは、よみがえったイエスに会ったと確信した。おびえて逃げた弟子たちが、命がけでそれを語る人に変わった。迫害者だったパウロや、疑っていたイエスの弟ヤコブまでが信じるようになった。

そして、ほかの説明を一つずつ検討します。幻覚説:幻覚は一人ひとりの心の中で起きるもので、大勢が同じ幻を同時に見ることは考えにくい。盗難説:弟子が遺体を盗んだなら、自分たちの嘘のために苦しみと死を受け入れたことになる。人は本当だと信じることのためには命をかけても、嘘だと知っていることのためにはなかなかかけない。気絶説:ローマの処刑人は死なせることのプロで、半死の人が石を動かして「勝利の主」に見えたとは考えにくい。墓違い説:それなら当局は正しい墓から遺体を出して見せれば済んだはずです。

本の結論は、これらの事実をいちばんよく説明するのは、イエスが本当によみがえったことだ、というものです。ロデオで言えば、8秒の後に立ち上がったのは、たった一人の本物のチャンピオンでした。

証拠を見る

『コリント人への手紙第一』15章3〜8節は、イエスの死、埋葬、復活、そして現れを並べた短い信仰告白を引用しています。一度に500人以上に現れ、「その多くは今も生きている」とまで書いています。多くの学者は、パウロがこの告白を十字架から数年以内に受け取ったと考えています。ローマの歴史家タキトゥスとユダヤの歴史家ヨセフスも、ポンテオ・ピラトのもとでのイエスの処刑に触れています。

細部も大事です。4つの福音書はすべて、空の墓の最初の証人として女性の名を挙げています。女性の証言が法的にあまり重んじられなかった文化で、作り話ならわざわざ入れない細部です。弟子たちは隠れていた状態から、主張を一番否定しやすいエルサレムで宣べ伝えるようになり、キリスト教の伝承では多くがそのために命を落としたと伝えられています。歴史家ゲイリー・ハバーマスは、批判的な学者の多くも認めるこうした点をもとに「最小限の事実」の議論を組み立てました。

マタイの福音書によると、祭司長たちはピラトに頼み、弟子たちが遺体を盗めないよう墓を封印させ、番兵を置きました(マタイ27章62〜66節)。墓が空になったあと、番兵たちはお金を渡され、「寝ている間に弟子たちが盗んだ」と言うよう指示されました(マタイ28章11〜15節)。ガイスラーとトゥレックは、この話が認めてしまっていることに注目します。反対者たちは「遺体はまだ墓にある」とは言わなかった。彼らの説明そのものが、墓が空だったことを前提にしているのです。しかも眠っていた番兵には、誰が持ち去ったかは分からないはずです。

証人たちのその後も重要です。初期キリスト教の伝承(新約聖書そのものではありません)では、ペテロはローマで、自ら望んで逆さまに十字架につけられたと伝えられています。イエスの兄弟ヤコブがエルサレムで処刑されたことは、ヨセフスも記録しています。人は間違って信じたことのために死ぬことはあります。でも、自分たちがでっち上げたと知っている話のために、仲間そろって苦しみを受けるとは考えにくいのです。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:多くの歴史家が認める事実(死、空の墓、現れ、弟子たちの変化、ヤコブやパウロのような懐疑的な人の変化)を並べ、自然な説明をひとつずつ、そのすべてに当てはめて試します。すべての事実を一度に説明できるのは復活だけだ、というのが彼らの結論です。

トレイルの上で考えると:仲間が命をかけて「この目で見た」と言い続けたなら、その言葉は軽くありません。弟子たちは、まさにそうした人々でした。

⑧ イエスは自分を神だと言ったのか

よくある反論

「イエスは立派な道徳の先生だった。でも神だと言ったのは、あとの教会が作った話だ」という反論です。

本の答え

本は、福音書の中のイエスの言動を挙げます。自分を「人の子」と呼び、ダニエル書に出てくる、天の雲に乗って来て永遠の支配を受ける人物と重ねました。罪を赦すという、神にしかできないことをしました。「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」と言い、聞いた人々は神を冒涜したとして石を取りました。礼拝を受けても、それを退けませんでした。

「立派な先生」説について、本はC・S・ルイスの有名な考え方を紹介します。自分を神だと言う人は、ただの立派な先生ではありえない。嘘つきか、正気を失った人か、それとも本当に主か。どれかを選ばなければならない、というものです。

「あとで作られた」については、⑥で見た早い時期の信仰告白や手紙が、すでにイエスを「主」と呼び、礼拝していたことを本は指摘します。そして⑦の復活が、その主張を裏づける「印」だと論じます。

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『マルコの福音書』14章61〜64節で、大祭司がイエスに「あなたはほむべき方の子、キリストなのか」と尋ねます。イエスは「わたしがそれだ」と答え、ダニエル書7章の、天の雲とともに来る「人の子」として自分を語ります。大祭司は衣を裂いて冒涜だと言いました。その場の人たちは、彼が何を主張したのか分かっていたのです。

ほかにもあります。マルコ2章でイエスは人の罪を赦し、見ていた人たちは「神おひとりのほかに、誰が罪を赦せるのか」と言います。ヨハネ8章58節では「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」と言い、群衆は石を取りました。C・S・ルイスはその選択をこうまとめました:こう言った人は、うそつきか、正気でないか、本当のことを言っているかのどれかだ。本は、最初の二つは彼の教えや行いの残りと合わない、と論じます。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:「聖書は神の霊感による」から始めるのではありません。文書を歴史資料として扱い、イエスが何を主張したかを問い、彼自身が予告した復活をその主張の確認として位置づけます。

トレイルの上で考えると:トレイルボスが「ついて来い」と言うなら、その人が誰なのかを知ることが一番大事です。イエスが何者かという問いは、避けて通れない分かれ道です。

⑨ 聖書は神のことばか

よくある反論

「聖書は矛盾だらけの人間の本だ。どの書を入れるかも、権力者が決めた」という反論です。

本の答え

本の論証は、ここまでの道のりをつなぎます。真理は存在する。神は存在する。奇跡は可能。新約聖書は歴史的に信頼できる。イエスは自分を神だと言い、復活でそれを示した。だとすれば、神であるイエスが教えたことは真実だ。そしてイエスは旧約聖書を神のことばとして扱い、弟子たちには聖霊がすべてを思い起こさせると約束しました(ヨハネ14:26)。

「矛盾だらけ」について、本は、矛盾と言われる箇所の多くは、よく読むと解決できると論じます。同じ出来事を見た複数の目撃者が、それぞれ違う細部を語るのは自然なことで、警察の事情聴取でも、全員の証言が一字一句同じなら、かえって口裏合わせを疑います。

「権力者が決めた」について、本は、初代教会は聖書の権威を作ったのではなく、使徒やその近くにいた人が書いた書物を、すでに広く読まれていた神のことばとして「認めた」のだと説明します。本の結論は、ここまでの証拠を受け入れるには、無神論のほうがかえって多くの「信仰」を必要とする、というものです。それが、この本のタイトルの意味です。

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本の最後のステップは、ここまでの流れから来ます。イエスが自分で言った通りの方なら、聖書についての彼の見方には重みがあります。『マタイの福音書』5章17〜18節で、彼は律法や預言者を廃止するためではなく成就するために来た、一点一画まで、と言い、福音書全体で旧約聖書を確かな権威として引用しています。

1947年からクムラン近くで見つかった死海文書には、それまで最古だったヘブライ語写本より約千年古い、ほぼ完全なイザヤ書の巻物が含まれていました。比べてみると、本文が驚くほど丁寧に写されてきたことが分かりました。本はまた、イエスの何世紀も前に書かれたイザヤ書53章の「苦難のしもべ」のような預言を挙げ、福音書と並べて読み、自分で判断するよう勧めています。

ガイスラーとトゥレックの組み立て:つながりは(1)真理はある(2)神はいる(3)奇跡は可能(4)新約聖書は信頼できる(5)イエスは神だと主張し、よみがえった(6)だからイエスの教えは真実で、聖書についての教えも含まれる。どの輪も単独で試せるように作られていて、本は読者にひとつずつ確かめるよう勧めています。

トレイルの上で考えると:ここまでの道のりを一つずつ歩くと、最後に一冊の地図が残ります。その地図を信じて馬を進めるかどうか、それが最後の、そしていちばん個人的な一歩です。

第5部 近くの教会を探す

もし心が動いたなら、一人で抱えなくて大丈夫です。日本各地に、扉を開けて待っている教会があります。下の地域をタップすると開きます。

この一覧がすべてではありません。ここに載っている教会よりも近くに、教会や集まりがきっとあるはずです。いちばん近い教会を見つけるには、「教会 + お住まいの町の名前」でさっと検索してみるのがおすすめです。

木の根っこについて。カトリック教会は使徒たちにさかのぼる教会であり、使徒継承と秘跡を大切にしています。プロテスタント教会は1500年代の宗教改革から生まれ、聖書と説教を重んじてきました。キリストがわたしたちの罪のために死に、からだをもってよみがえったことを宣べ伝える教会なら、どこもイエスへの本当の入り口です。

管理人より。この一覧は、どの教会もひいきしていません。正直に言うと、わたし自身にはカトリックがいちばん合っています。何十年もプロテスタントとして歩み、いまはカトリックの道で信仰を育てているところです。けれども、プロテスタントもカトリックも、いちばん大切なメッセージは同じです。イエスさまは救ってくださる。だから、永遠のいのちを求めて、イエスさまのもとへ行ってください。

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最終確認:2026-10-25(各教会の公式ページで確認)。ミサ・礼拝の時間は変わることがあるので、行く前に電話で確かめるのがおすすめです。